春、桜、新年度、などという単語が溢れかえる季節になりましたね。
わたしの仕事(バイト)や生活に新年度という概念は存在しないけど、新年度初日は心療内科に赴き、しかし休診日というやらかしをキメたばかりです。
前回の記事で調子がいいと書いた。今は悪くなり始めている予感がある。
うつには波があると言われている。気候変動などが影響するとも。しかし、だからなんなのだろうと思ってしまう。
大丈夫です、その死にたさつらさは気圧のせいです!と言われても、なにが大丈夫なのか、という気持ちになる。そのぐらいには調子悪いです。
今日は、わたしの人生における初めての大きな挫折について書こうと思う。
それはわたしの人生において、大きな分岐点だったと思う。そしてわたしは恐らく最悪の選択をして、失敗した。人に話すには些細なことかもしれないし、そもそも学生時代の思い出話など話す機会もない。なのでここに書いておきたくなった。
わたしの高校は、所謂進学校だった。そこそこ勉強のできた中学生のわたしは必死に勉強して第一志望へ合格した。
その高校を選んだ明確な理由があった。進学校でありながらとても自由な校風であることだ。実際校則はとても緩かった。制服も改造し放題だったし、染髪やバイトもOK。自由なのに、やるときはやる。カッコいいなと思った。
入学して、美術部に入った。美術部とは名ばかりの、オタク女子たちが適当に絵を描きながらたまにコンクールに出したりして、あとはお菓子を食べたり読書したりする部活だった。とても楽しかった。
中学で、いじめとまではいかないが常に男子に「デブ」とか「キモい」とか言われ続けていたわたしの高校デビューはそこそこ順調にいったと言える。
同じ中学の子はほぼいなかったし、わたしなりに努力して友だちもできた。カーストでいえばやはりオタクや地味グループに属していたけど、それで満足していた。上位カーストの人間たちからたまに内心デブであることを笑われたり下に見られたりそういう雰囲気は感じとっていたけど、直接悪口を言われたりからかわれたりということはほぼなかった。何よりオタク活動や部活が最高に楽しくて、嫌なことも帳消しになっていた。
自由な校風を謳うその高校で、文化祭はとても特別なイベントだった。力の入れ方が尋常ではないのだ。進学校でありながら、冬までは受験勉強よりも優先される。部活も夏休み前にはみんな引退してしまう。
文化祭での催しは、クラスごとに1年生は飲食店、2、3年生は劇と決まっていた。
外装から劇中の美術、衣装、脚本などすべてをクラスで作る、それは恐らく下手な演劇部より力の入った劇で、学年ごとに表彰を競い合う。
特に3年生にとっては、学生生活最後の青春という位置づけである。1年をそのために過ごすと言っても過言ではなかった。
先生たちも唸るような出来栄えの劇がクラスの数だけできあがる。しかし、もちろん全てのクラスが成功に終わるわけではない。
結論から言うと、わたしのクラスの劇は失敗に終わった。そしてわたしも、その中心にいたのだった。
劇の役割を決めるにあたり、リーダーのような役割が「監督」。その次が「脚本」。あとは役を割り振られた子たち。「衣装」「小道具」などの各リーダーと続く。
わたしはなにを思ったか、あろうことか、監督に立候補して、その座についてしまったのだ。
「あのとき○○しなければ…」という後悔はあまりすることがないけど、この馬鹿みたいな選択は今でも、死ぬまで後悔することと思う。
想像してみてほしい。クラスで特段いい位置にいるわけでもなく、たまに声のでかいキモいだけのデブスオタクがある日突然クラスのリーダーになってしまう光景を。
なぜそんなことをしてしまったか。
デブスオタクのわたしは、高校生の青春にあこがれていたからだ。
思えば当時、「高校生活、悔いのないように」とか「人生に残る思い出をつくろう」とか、そういう夢がそこかしこでばらまかれていた。先生をはじめとする大人たちが口を揃えてこう言ったし、漫画やアニメもそう言っている。
何か挑戦してみたい。文化祭を成功させたい。悩んで、考えた末に誰も手を挙げない「監督」に立候補してしまった。
リーダーシップとは人徳だし、カリスマだし、説得力だろう。わたしはそのどれも持っていなかった。
元々あまりやる気のなかったクラスの士気は、下がっていく一方だった。夏休み前から始まった劇の練習や美術についての打ち合わせは驚くほど進まなかった。
怖い男子たちを中心に、わたしの言うことを無視する人たちが一定数いた。嫌われている。笑われている。ウザがられている。今まで薄々感じていたけど見ないようにしてきたのに、そこで突きつけられた。
準備をサボりクラスの隅っこでひそひそ話をするグループを見ないようにして、指示を出してはいたけど、その全部が空回りだった。準備の進捗やクラスの雰囲気がヤバい、という空気は嫌でも感じ取っていたけど、今更監督を降りられないし、ましてや状況をどうにかできる能力をわたしは持っていなかった。
文化祭を目前に控えクラスの椅子や机は舞台のセットに代わる。うちのクラスだけが、ひと目で「このクラスヤバくない?(笑)」と言われるような、ほぼ未完成のようなひどい外装・セットだった。
クラス代表として文化祭委員会に出席したあと、教室のドアを開けた。みんながお通夜のようにゴミみたいなセットを準備している。
「うわ、来たよ…カントク」
誰かがつぶやいた。
クスクスと笑いが起きる。
ガンと頭を殴られたようだった。漫画みたいだな、と関心しさえした。
クラス中の溜まった不満が爆発していた。わたしも原因の大半を担っていただろうけど、今思えば不満をぶつけられる最適の的だった。
そして、男子たちに面と向かって責められた。その男子たちはこれまで準備にほぼ参加せず、文句だけを言っていた。
しかし、驚くことに本番の3日前くらいから、なぜかその男子たちが主導権を握りクラスに指示を出し始めた。そして更にはみんなもそれに従い、何なら士気があがっているのを感じた。
わたしは何も言えないまま主導権を明け渡すしかできなかった。名前だけ監督。もはや「カントク」は蔑称だった。
上演すら困難と思われた劇は、なんとか、最低限の形になって終わった。
しかし、うちのクラスは学年中の笑いものになっていた。後夜祭での金賞発表の際には、誰かがふざけて「○組!○組!」とうちのクラスのコールをはじめ、先生がマイクで収める事態になった。
文化祭をきっかけに、うちのクラスはわかりやすく崩壊した。
仲がよかったはずの男女たちが口もきかなくなり、文化祭あとの体育祭では仕返しとばかりに女子が練習のボイコットをした。学校を休んで予備校へ行くというサボりが横行した。担任の先生は卒業式当日に「こんなにひどいクラスは初めてだ」と静かに怒った。
わたしはカントクから開放された。しかし、中学の頃と同じように、再び男子たちにバカにされ悪口を言われ続け、見ない聞かないふりをし続けた。
それまで持っていた愛校心は消えて、高校が大嫌いになった。卒業のときは心底ホッとした。
わたしは人の上に立てない。能力がない。
それを痛感したのだ。夢は叶わない。努力しても失敗することがある。それを知らなかった。
それまで、デブやブスやオタクで笑われたり嫌われたりすることはあっても、自分の能力や、自分が頑張った行動が責められたり咎められたりすることは初めてだった。
当時のわたしは全部自分のせいだ、と思いこんだ。今では決してそうではないと思えるが、しかし責任の一端を担ったことは事実だ。わたしの青春は苦いを通り越して地獄みたいな思い出になったし、一緒に頑張ってくれた子まで笑われて、泣いていた。他人の青春にも泥を塗った。それがすごく申し訳なかった。
そして、失敗してもやり直しはない。一度壊れたものは治らない。努力してうまくいかなかったときどうしたらいいか、大人は教えてくれなかった。いや、またチャレンジすればいい、とかそんなことは言っていた。
できるわけがないと思った。もう二度とこんな思いはしたくない。初めての失敗は、大きすぎるものだった。
それからも、わたしの失敗は続く。
大学デビューの失敗。
就職活動の失敗。
転職活動の失敗。
どれも、外的要因はほぼない。わたしが選んだ道だ。結果をみれば、そのすべてが間違いだったと言わざるを得ない。
わたしはこれからも失敗し続けるのだろうか。
人生が終わったとき、「失敗作」と名前がつくのだろうか。そこにはきっと、「監督・わたし」とクレジットされている。