どうだ暗くなつたろう

twitterじゃ冗長すぎることとか書いても仕方ないけど書きたいことを書きます

わたしはブラジャー恐怖症

タイトルの通り、ブラジャーが苦手だ。怖さすらある。

この年になっても下着屋さんに一人で入れない。友人や姉が下着を見たいと行って連れられても、目のやり場に困ってしまう。とても居心地が悪い。

硬質なワイヤー、ホック、ごわごわとしたナイロン生地、リボンや花柄、レース。とにかくなにか、触るのも躊躇われるほどの怖さがある。自分が触れてはいけないものだという感じ。

 

なぜかと言われても明確な原因はあまりないが、ひとつ、今でも覚えているブラジャー怖いエピソードがある。

 

中1の夏だったと思う。

プールの授業後、じめじめしたかび臭い更衣室で着替えていたとき。

隣で着替えていた女の子が、突然「ごめん、ホックかけてもらえる?」と背中を差し出してきた。

当時ブラジャーを着けている子は半分くらいだったと思う。もちろんわたしは嫌だったので着けていなかった。

背中を差し出されたわたしは、無言で固まってしまった。まるで綾波レイの裸体を見たシンジ君のように挙動不審だったと思う。

見かねたわたしの友達がホックをかけてあげていた。

あのときの「ヒッ…」という感情は今でも鮮明に覚えている。

日に焼けた背中にぶらんと揺れる、ブラジャーという未知。

 

その後ブラジャーを着けざるをえなくなるが、いつまでたっても上手につけられなかった。デブなので背中に手をうまくまわせないという理由が大きいが、そもそも背中に手を回して見えないものをごそごそやる行為は無性に不安だ。そこに自分一人しかいなくても、着替えの度に恥ずかしいような居心地の悪い感じがして嫌だった。

元々わたしは「女の子」が苦手だった。

住んでいたマンションの環境が大きかったと思うが、幼稚園〜小学低学年くらいまでは男子しか友達がいなかった。

小6のとき転校して、男子からいじめられるようになった。その頃にはもう友達は女子だけになったけど、相変わらずスカートは履かないし、今では本当に忘れたい過去だけど一人称は俺だった。(俺女というの、まだ現存する単語だろうか)

やがて生理がはじまり、ブラジャーを着けるようになったけど成長するのは身体だけで、精神は「女」にはならなかった。

ただ、いじめや男子からのからかいをきっかけに「周りに合わせる」ことを覚えたわたしは、段々と周りにあわせて「女」になった気で生きてきた。

 

大学生の頃、志村貴子の『放浪息子』を読んで衝撃を受けた。

男の子になりたい女の子、高槻さんというキャラクターが物語の核となる。

高槻さんになりたい。と強く思った。

その頃大学デビューに失敗したわたしは、大学という社会集団(特にサークル、ゼミ)における「かわいい女の子」と「そうでない女」の差を感じ取り絶望し、恐怖していた。あらゆる面での扱いの差。周りもそうだし、当人もそうである。大抵のかわいい女の子はかわいい女の子として扱われてきた性格をしているし、それが表情や言動にも現れる。そしてそれは、そうでない女も同じ。

ほぼ成人し、あと数年で社会人となる人間たちの集団が「こう」なのだということがとてもショックだった。

この頃のわたしはインターネットの影響もあり、男性恐怖寄りの性嫌悪がかなりあった。

そんなとき高槻さんに出会い、その思想は一層確固たるものとなる。

年下の高槻さんを真似して胸が潰れるタイプの下着を買ったりもした。流行に合わせて買った好きでもないスカートは捨てた。

だけど、心のどこかに、自分は嘘つきではないか?という疑念や罪悪感のようなものも常にあった。

わたしは自分が男性に見向きもされないのを、「男が好きではない」「自分は女ではない」「性が嫌い」という理由で正当化しているのではないか。

「高槻さんになりたい」という気持ちは、ただの2次元キャラクターへの憧れであり、自分の性に対する気持ちなどは後付けで、関係ないのではないか。

 

そのあとも『放浪息子』は続いて、高槻さんは物語の中で年齢を重ねていく。小学生だった彼女は最終巻で高校生である。

主人公の二鳥くんとは違って高槻さんの気持ちは成長と共に変化していき、男になりたいと思わなくなっていく。

男になりたいと思わなくなった頃の高槻さんは男子からも女子からもモテる、雑誌のモデルになれるようなマニッシュでスレンダーなかわいい女の子だ。これを見たわたしは再びとてつもない衝撃を受けた。

やっぱり、高槻さんになりたかった。

わたしが本当になりたかったのは、決して女性らしくはない、でもかわいい女の子。 

結局は、心の中にあった疑念が正しかったということなのだろう。わたしは本当に自分の「性」が嫌いなわけでもないし、男になりたいわけでもない。

しかし、それは高槻さんも同じだったのだ。そう思うと、まるで高槻さんに許してもらってるような気がして安心した。

 

今のわたしは、性嫌悪というほどではない。だけど性別なんてなきゃいいのになとは常に思ってしまう。社会に出てから出会った男の人は、学生の頃みたいに怖い人もいたしそうでない人もいる。怖い人というのは、「性」を出している人。言動や表情のふとした瞬間に「性」が現れている人。そういう人はこちらにも「性」を押しつけてくるし、要求してくることがある。

でもそれは女の人も同じで、女という「性」を出している人はわたしにとって大抵怖い。そしてそうでない人もいる。 

また他人に限らず、自分が「性」を出さなければいけないとき、「性」という型に嵌らなければいけないときには今でも居心地の悪さを感じる。例えば結婚式や就職活動でワンピースやスカートのスーツを着なければいけないとき。妊娠や出産について話すとき。

ブラジャーはわたしにとって正にその典型なのだと思う。「性」という型そのもの。それを着けることで型に嵌められる。

雑誌や広告を見ると、近頃はノンワイヤーブラジャーがどんどん進化しているみたいだ。

そのうちにわたしが着けられるブラジャーが登場するだろうか。着けても「女」にならないブラジャーが欲しい。