前に書いたブラジャー恐怖についての記事で、放浪息子(志村貴子)の高槻さんになりたかったと書いた。
ふと記事を読み返したら、文章の構成や脈絡(これら、一応気にしています)を気にしすぎて自分の気持ちを全部書いてないことに気づく。
ので、書いておこうと思う。
高槻さんが心身ともに変わっていくのを目の当たりにしたわたしは、自分の中にあった性嫌悪が和らいだのを感じた。
しかしそれは以前の記事に書いたような、肯定的な気持ちの動きだけではなかった。むしろそれより大きかったのは「諦め」だったと思う。
わたしがなりたいと思った高槻さんは、マニッシュでスレンダーな2次元の女の子だ。志村貴子が描くその顔はもちろんかわいい。
わたしには、そのどれもが当てはまらない。
鏡を見ればぶよぶよとした肉の塊、ニキビで荒れた肌、ぎろりとした一重の目、口角の下がりきった口。
なれるわけがないのだ。
そのことに、本当に気がついてしまったのだと思う。
努力すれば近づける、とかそういうことではない。
だって、放浪息子1巻からの高槻さんを見ていたら、高槻さんが高槻さんとなっていくのには周りの環境も大きい。
わたしにはどれもない。
そう強く思ったら、すっぱりと諦めがついた。
わたしは女だ。
女らしいことが苦手で見た目も悪く、ときには異性から女扱いされないときもある。しかしキャラクターではなく3次元の人間で、性別は女なのだ。
悲しいけれど2次元のキャラクターにはなれない。そうわからせてくれたのが高槻さんだ。
という言い訳を書きたかったのです。
そしてこれはまったく余談ですけど、喪女らしく(?)少し男性関係の話を書きますね。
去年、わたしは所謂「恋活」に挑戦した。
性嫌悪が薄れたからか、精神的に元気になったからか。恐らくどちらでもない。
知り合いのいない町で一人暮らしを始め、寂しさが募っていたからだと思う。
毎日顔を合わせるのは職場の同期と上司で、みんなプライベートを犠牲にして毎日半日以上一緒にいるものだから話題も代わり映えしない。休憩時の世間話はいつも既視感のあるものばかりだった。
煮詰まった人間関係によるストレスはどうしようもない孤独感を呼んで、何を思ったかわたしは唐突に恋活アプリと呼ばれるものをインストールした。
結果から先に書くと、失敗した。
というより、仕事が原因で精神がだめになってしまったので早々にアンインストールすることとなった。
一人だけラインのIDを交換したが、直後に限界がきて休職してしまったので結局連絡することはなかった。
この辺はまたいつか元気があったら書こうと思うけど、とりあえず初めての恋活を経て、(ついでに精神科通院も経て)わたしは異性との出会いを諦めた。
恋活や婚活は、あらゆる面でやはり「女」を求められるとわかったからだ。
考えれば異性と出会う場なのだから当たり前である。
だけど、婚活パーティでの服装とか、アプリでのやりとり、子どもは欲しいかとか、そういうのを頑張って得られた異性との関係って、わたしがほしいものなのだろうか。
多分違う。そもそもわたしがほしいものがわからない。好きなタイプとかいない、だって異性と触れ合ってきてない。
あと、わたしのようなデブスが好きなタイプだなんておこがましい、という気持ちはかなりある。これが原因で好きな芸能人などもあまり人には言えない。
支離滅裂になってしまった。
とにかく今のわたしは性嫌悪は薄れたものの、彼氏ほしいとは思わない。
そもそも精神が自分で手いっぱいで、それどころではないのだ。
また元気になって余裕が出たら、変わるかもしれない。
そうなってくれる日が来てほしいけど、来てほしくない。