最近、調子がいい。精神の。
理由は明確ではないが、いくつか推測ができる。
はじめは通勤時に泣いたりサボってしまうほど嫌だったバイトに慣れてきたこと(今週から週4にシフトを減らしてもらった)、弟が実家に戻ってきたため母と二人でいる時間が減ったこと、新しく心療内科への通院をはじめたことなど。
調子がいいときと悪いときでは、Twitterでのつぶやき方が全く違う。
悪いときは、不安、怒り、悲しみ、死にたさなどをとにかく打ち込む。脳みそとツイートボタンが直結したみたいになる。ガスを抜くようにツイートをして、破裂するのを防ぐしかない。
いいときは、つぶやくことがなくなる。あるいは漫画や映画など娯楽に興じる余裕ができるため、その感想などをツイートする。
自分でもわかりやすすぎて笑ってしまう。
正直、調子がいいと、不安だ。
勝手にわたしがわたしに言い聞かせる。調子がよくたってわたしはわたしなのだから。
調子がよくたってフリーター。
調子がよくたってデブでブス。
調子がよくたって喪女。
調子がよくたって人生が好転しているわけではないのだ。
それに調子がよくたって、また悪くなる。
だったら悪くなって、いっそマイナスへ振り切れて取り返しがつかなくなればいいのに。
生殺しはいつまで続くのか。
そして、これはわたしのアイデンティティにも関わる問題だろう。
今のわたしを一言で表せば「心療内科通院中のフリーター喪女」である。
もしこのまま具合がよくなって、通院しなくてもよくなった場合、ただの「フリーター喪女」となる。そして代わりの枕詞をあえて挙げるなら、「無能の」「ゴミクズの」などになってしまう。
掲げていい看板がなくなる。
今考えてみれば、再び心療内科に通院しはじめた理由はこれが大きい。
わたしのつらさは、心療内科通院という前提があれば少しだけ甘く見てもらえるような気がしている。通院は免罪符だ。
それがなければ、ただ世の中に対して屁理屈をこね、駄々をこねている怠惰な人間にしか思われないだろう。そして自分でもそう思い、自分を責めたてるだろう。
また、これは通院を重ねることでわかったことだが、たとえ通院が必要なくなっても、コミュニケーション能力がぐんとあがるわけでもない。突然就職活動に成功してホワイト企業の正社員になれるわけでもない。社会に適応できるようになるわけではないのだ。
やはり生殺しである。
結局わたしはよくなりたいとは余り思っていないのかもしれない。
死んでしまえるほど、悪くなりたい。精神の具合は、この人生と釣り合わなくてはいけない。
さもなければ、わたしのじゃない、具合のいい人生がほしい。