どうだ暗くなつたろう

twitterじゃ冗長すぎることとか書いても仕方ないけど書きたいことを書きます

Give me 安心

無気力で、疲れている。

疲れていて、無気力なのかもしれない。どっちでもいい。どっちでも一緒だ。

2ヶ月くらい続けていた日記も、ぱったりやめてしまった。

ちょうど緊急事態宣言が明けて、仕事が平常運転に戻ったのがきっかけだったような気がする。

コロナウイルスのことについて、多分わたしはかなり楽観的なほうだと思う。ウイルスや、感染うんぬんではなく、めまぐるしく変わる生活に疲れた。

 

現在わたしは派遣社員である。この間、中途採用に一社だけ応募してみた。というか今働いている会社なんだけど。

正社員登用のような制度はなく、外部の転職サイトから応募して、ほかの応募者たちと同じように選考に参加しなくてはいけない。

一次面接の前にSPIを受けた。(新卒のときにまともに就活をしなかったので、SPIを受けるのは初めて)正直SPIというものをナメており、急な募集だったこともありほぼ準備ができなかった。結果は悲惨だった。この後面接が予定されているけど、挽回できるレベルではないと思われる。いや、そもそも面接だって得意じゃないのだ。

 

とまあ、ここ2週間ほど所謂就活というものに少しだけ触れているけど、本当に苦痛だ。

自分のこれまでのことを思い出させられ、暗澹たる気持ちになるし、意味なんてあるのかよくわからない形式ばったものがたくさんある。そういうものが本当に嫌いなのだ。

そんなに苦痛ならやめたらいい。なぜわたしはこんな思いをして正社員になりたいんだろう。

多分、安心がほしいだけなんだと思う。

でも待ってほしい。中途採用の応募ひとつでこんなにのたうち回っているような人間が、仮に奇跡的に正社員になれたとして安心が得られるのだろうか。

わたしは生涯のうちに、安心を得られるのか。安西先生、安心を得たいです…。

 

もっとほかの道があるのかも、と考える。

まだ見つかっていないだけで、もっと探せば、どこかにわたしが安心して生きられるところがあるのかも、と。

でも待ってほしい。思い出してほしい。パン屋に就職を決めたときのことを。高校の文化祭を。わたしが一念発起してチャレンジしたときのことを。

もうこれ以上失敗を重ねたくない。

なのに安心を求めるのは強欲すぎるのか。そうか。

 

こんなふうに、こじらせた自意識が喋りだして止まらなくなってしまうのでやっぱり就活ってヤバいと思う。

母との歴史

家族の話をすると変わってるねと言われることがまあまあある。(変わってない家族なんてある?見たことない)

家族は四人いて、母姉わたし弟。

小学生のときに両親が離婚して、片親になった。

 

母のことを文章に書こうと思ったことは一度や二度ではないが、結局いつもまとまらずに断念する。

母のことを聖人かなにかだと、子どもの頃は真剣に思っていた。

離婚する前の母は専業主婦で、買ったばかりのマイホームで家事と子育てに囲まれていた。子どものわたしから見たら、かわいいし、優しいし、ご飯が美味しい、何でも知っている自慢の母だった。

母の浮気で離婚が決まっても、その浮気相手を追って遠く離れた地へ引っ越しを決めたときも、それはなぜか揺るぎなかった。

 

今はそれが、わたしが子どもだったからだとわかる。

母は完璧ではない。母は勝手だ。

だけど、わたしにはいつも、母に対する申し訳なさがある。

離婚して、働きながら3人の子どもを育てた母。3人分の学費をほぼ一人で貯めた。

負い目がずっとある気がする。わたしは未だに母に文句一つ言えない。喧嘩もできない。母が機嫌の悪いとき、どれだけうるさくものに当たろうと、酔っぱらってウザ絡みしてこようと耐えることしかできない。

頭のなかでは、負い目など感じる必要はないのではないかとも思う。

子どもたちを引き取ると決めたのは母だし、母に育てられてわたしは「こうなった」のだ。だけどわたしももう大人だから、自分のことを親のせいにすることが世間では恥ずかしいことなのだと知っている。

恥ずかしい。情けない。誰に対してそう思うのだろう。

 

中学生のとき、母が彼氏を家に住まわせたことがある。所謂ヒモだ。

ヒモの話は長くなるので(ヒモだけに)ここには書かないでおくけど、簡単に言えばわたしはヒモに性的いたずらをされていた。突然キモい話で申し訳ない。

母は多分気づいたと思う。でも何も言わなかった。母と真剣な話をしたことなんてほとんどない。テレビの話とか、ねこの話しかできない。ずっとそうなのだ。

このことも、わたしは負い目に思っている。

 

なんでいきなりこれを書こうと思ったんだろう。多分、母の不機嫌にあてられて、わたしも母に仕返ししたくなった。

なんの仕返しにもならないけど。

仕返しがしたいのではない。本当は、なんで怒ってるの?って聞いたらちゃんと答えてほしい。謝っても無視しないでほしい。ものに当たらないでほしい。

 

大学生喪女だったわたしは今も喪女

4月末からTwitter、ブログに加えてEvernoteで日記もつけはじめた。

なにをどれに書こうかな、とかたまに迷ったりするけど自分の中でざっくりとカテゴリが決まっている。

 

喪女という言葉を初めて聞いたのは大学生のころだった。当時はまだ2chを見ていた。

ちょうどTwitterも知った頃で、わたしは喪女アカウントをつくりTwitterを初めて、フォローやフォロワーは同じく喪女の人ばかりだった(もう7年くらい同じアカウントを動かしているので、最近はそうでもない)。

2chの喪女板はスレにもよるけど性質上荒れることが多い一方で、Twitterは基本的に落ち着いている。2chと違って半匿名だから、ちゃんと個人がそこにいるのがわかる。もちろん色んな人たちがいるけど、その中でも気が合うなと勝手に感じた人をフォローする。交流せずともなんとなくタイムラインの居心地はいい。

 

よく「学生のうちは喪女を名乗るな」という声があがる。これは2chでもTwitterでもそうだ。

わたしはそうは思わない。何よりわたしが大学生の頃から喪女を名乗ってきたからだ。

学生のうちは喪女を名乗るなという人の気持ちは理解できる。まだ成人に満たないような年齢のうちは、モテないとかでなく本当にただ機会に恵まれなかっただけという人も多いのだろう。

わたしの場合はそれに当てはまらない。28才になった現在も変わらず喪女であることがなによりの証明なのだけど、大学生当時から薄々と、しかししっかりとそれを感じていた気がする。

大学はとてもつらかった。

大学デビューに失敗、はしゃいで入った軽音サークルは1年でやめた。学びたいことなんてなく、友だちを作る勇気やコミュニケーション能力もない。この限られたモラトリアムを有意義に使わなくては、という罪悪感に苛まれ、なのに怠惰でなにもしない。キャンパスを歩けば男女の笑い声がする。女の人を格付けしたり、外見で明らかに態度を変えるような男の人を大学でたくさん見た。キャンパスの中は彼氏彼女の有無、モテるモテない、そういうことが様々な場面で大きな意味を占める、異質な世界だったように感じる。

そんななかで数少ない安息の地が自分のTLだった。

喪女というきっかけがなければわたしはたぶん中途半端なリアアカをつくり、知り合いとのコミュニケーションにやきもきし、最悪のTwitter人生を送っていた気がする。

 

長い時間が経ってTLも少し変わった。

つぶやかなくなった人はたくさんいるし、なんか違うなと思って(思われて)フォローを外した人もいる。でも変わらない人もいる。

前述したようにわたしは現在も喪女だし、恋愛については消極的だ。恋人という存在に憧れもするし一緒にいて幸せになれる関係の人間がほしいとは常に思っている。でも自分から動こうというエネルギーはあまりないし、半ば諦めてもいる。

そういうわたしに、わたしがつくったTLはやさしい。

何が言いたいかというと、わたしみたいな人がいたとして、喪女は大学生を名乗るなっていう声によって門扉を閉じられてしまうのはちょっと悲しいなと思う。(これ、何様目線なんだろう)

まあいろんな人がいるからね。

他人に対して必要以上に怒らず妬まず期待せず喜ばずやっていきたいなと思います。

寛解期には気をつけろ

春なのになかなか日光を浴びてぽかぽかすることができず歯がゆい。

最近ねこがいつにもましてわたしに撫でて揉んでとすり寄ってきてかわいい。

暖かくなったらジムにまた行こうと思っていたのにこんな世の中の雰囲気に流されてまだ行けておらず、行けてないまま会費はもうずっと払い続けている。とほほ。(とほほじゃない)

左目の涙袋がかすかに腫れているのが3週間くらい治らない。だけど痛みはないし涙袋がかなり小さい人間なのでかえって涙袋が大きくなっていいのでは?とほっといている。歯の矯正が落ち着いた今、二重整形に心が向きつつある。しないとは思うけど、たまにそういう記事やクリニックのHPを見たりする。

近ごろこんな感じで日々生活してます。

 

久々に精神に関するブログを書きます。

というのも、過去に切れてしまった縁について最近たまに考える。春だからかな。

親しくしていた人と疎遠になることは幾度となくあった。その原因ははっきりしなかったり、わたしの不用意な言動のせいかもしれないと思うものもある。

そんななかで思い返す直近の後悔、懺悔です。

 

抑うつで休職からの退職&通院していた頃、仲が良かった二人ほどと縁が切れた(と思う)。 

繋ごうと思えばまた繋げる縁かもしれないけど、今のところそういう気持ちにはなれないし向こうもそうだと思う。

二人はそれぞれ別のコミュニティに属する友人だったけど、休職期間中に連絡をくれたり会ったりしてくれた、優しい人たちだ。

休職直後、精神のどん底にいたわたしはそうした友人たちと時たま連絡をとったり会って話をきいてもらったりした。でもなにしろ本人のなかではどん底なので、元気や気力に乏しく、他人へ自分のつらさを具体的に話したりすることはそこまでしなかったと思う。(記憶がおぼろげなのでしていたかも、していたら申し訳ない)

 

バイトをはじめたり、通院を続ける中で少しずつどん底から抜け出した。生きることへのつらさ苦しさみたいなものは依然として感じていたけど、それが生活へ支障をきたすことはなくなって今までどおりの生活が戻ってきた。たぶん寛解期ってやつだと思う。

今思えばこの寛解期が厄介だった。

元気や気力は少しずつ回復したものの、休職のことは記憶に新しすぎるし、通院が日常となっていたのでそうした所謂「精神」のことばかりが脳みそにある。

そんな状態で友人と会うので、「精神」が口から出てしまう。友人たちが至って普通の世間話や正常な話(正常な話?)をするのに、わたしの口からは「精神」の話が出てくる。

あと、少しよくなってきた自覚があったからか、同じく生きづらさを抱えた友人に対して「経験者風」の、どこから目線なんだというアドバイスをしてしまったり。

寛解期はあくまで寛解であり全快ではないのがポイントで、当時のわたしはそうした話を他人にすることになんの疑問も覚えず、それを言われた側がどう思うかなんて考えなかった。寛解期というか、超頭でっかち期。

 

友人が、というか他人が面と向かって優しいのなんて当たり前だ。

その優しさはわたしを甘やかすためにあるわけではないし、わたしの全てを受け入れたり許したりするためにあるものではないということを肝に銘じたい。

あと、他人の気持ちに共感したりしたところであくまで「共感」であり理解ではない、完全な理解は不可能。(前も書いたかもしれないなこれ)

他人や自分以外のものごとに対して理解した「つもり」という姿勢を保てますように。

 

 

出し惜しまない

勤務先のオフィスが移転して、3月くらいから綺麗で窓が大きなビルに通っている。

電車通勤は当初心配していたより苦痛でない(今のところ)。電車は混んでいるけど、人々の頭越しに海が見える。朝は天気がいいとキラキラキラキラとしている。

オフィスは以前より新しいビルだから綺麗、高層階で見晴らしもいい。ただ、窓が大きいせいか日のあたりが凄まじく、春なのに既に暑い。暑がりデブ、ピンチ。

 

この間、友達がやっているポッドキャストにお邪魔して喋ってきた。

ブログを書いていることに触れたので、万が一それを聴いた人がここにたどり着いて目にする一番はじめの記事がBLと性欲だと、恥ずかしいっていうか「ちがう、そうだけどそうじゃないんだよ…」という気持ちになるので(わたしが)急いでこれを書いています。

 

ポッドキャストの感想と自分への気づきを。

そもそもわたしは自分の声や話し方にコンプレックスがある(典型的なキモオタ感、悪い意味のウェット感…)し、話しが特別おもしろいわけでもないし有名人でもないので心配はあったけど、声をかけてもらって素直に嬉しかったので素直に参加させてもらった。

番組の出来不出来とかはしらないですが、本当に楽しかったのでよかったな。後悔するかと思ったけどそうならなさそうで、感謝〜。って感情が湧いてくる。

話している中で、わたしが結構パーソナルな部分(同人誌を書いていた話や休職の話)をしたのでとっつきやすいみたいなことをほぼ初対面の人に言ってもらえた。

それで思ったけど、ほんと、隠すよりなんでも出してこうと思いました。

まあふだん隠してるわけじゃないんだけど、やっぱり嫌われるの怖いとかでなかなか自分の話とか人にできなくて。みんなそう?そうか。あ、インターネットではめちゃするけど。

そもそも外見が優れてたりぱっと見で好かれるようななにかを持ち合わせてないので、中身を出してかないと「無の人」で終わっちゃう。むしろ外見でマイナスもある。

中身出して人に嫌われることももちろんあるだろうけど、外見で嫌われるか中身で嫌われるか、もしかしたら中身で好かれるかじゃん…ってことに改めて気づきました。当たり前で月並みなことですが、人に好かれたいし人とコミュニケーションとるのもできれば楽しくやりたい。

 

もういっこは、これ他人と話すとたまにハッとなるんだけど、あ、わたしってそういえば世間一般でいえばネガティブだったわ…って気づき。

前も書いたかもしれないけど、わたしにとってはすでに「1+1=2」「This is a pen.」みたいな当たり前のことが、自虐だったりネガティブな思想だったりする。

ここ最近自分のことをそういうふうに省みないので、やっぱり他人と話すと思い知らされる〜。

相手がどう思ってるかはわからないけど、もしわたしだったらネガティブなことばかり話されても困るので、なんとかできないかな〜と思いつつも難しいだろうな。

こう書いてる記事の中にも自虐がありますしね。

 

とりあえず見せれるものは見せていきたいし、Twitterのアカウントとか短歌とかどうしていこうかなあとめちゃめちゃぼんやりだけど考えています。

 

追記:自分のことばっかで書き忘れたけど、友達のポッドキャストはすごく水みたいで心地良いのでおすすめです。YMKラジオという番組です。