どうだ暗くなつたろう

twitterじゃ冗長すぎることとか書いても仕方ないけど書きたいことを書きます

かわいいという安心

「あ、あれかわいい」「ほんとだかわいいー」感情のあるのかないのかわからないような声でそれは連発される。呼吸のように「かわいい」を発する、女子という生き物が存在する。

「かわいい」という言葉は以前よりも使い方に幅ができたように感じる。

みんなが色んなものに、色んなニュアンスで「かわいい」を使うので、「かわいいと言っている自分がかわいいんだろ」という文句はもはや一昔前のものみたいだ。

かくいうわたしも「かわいい」を使用しているけど、それはもちろん上記の文句にあるような自分かわいさで発しているわけではない。

しかし、ただ単に対象に向けてかわいい、を伝えているだけでもないのだと最近気がついた。

わたしがかわいい、と発することによって得るものは何より安心である。

 

 

高校生になるまで、「かわいい」をあまり使ってこなかったと思う。

当時オタク(腐女子)だったわたしの使う主な感嘆詞は、「クッッソ萌える」とか「テラヤバス」とかだった。どちらも死語です。今だと「尊い…」とか「最高かよ」とか言うんでしょうね。

たまに「かわいい」を使うことがあっても、その対象は漫画やアニメのキャラクターがほとんどだった。周りの女子たちは大概、同年代の女優や化粧品、洋服などに向けて「かわいい」を使う。うっすらと、わたしの使っている「かわいい」とは違うものだという認識があった。

 

高3のとき、クラス内の様々な事情により「ギャルではないけどかわいい陽キャラJK」グループで過ごしたことがある。

自ら望んでそこにいたわけではない。自他共に浮いていることを認識していたし、卒業まで男子には笑われた。つらいのでこの話はやめよう。

とにかくグループが変わったので放課後や休日の過ごし方も変わった。

毎日学校帰りに意味もなくパルコを歩き、「かわいいー」「かわいいー」を発しながら手にはとらず、その横を通り過ぎる。そういう友達と一緒に、放課後を過ごすようになった。

 わたしはそれまで、自分には彼女たちのような「かわいい」を言う資格がないと思っていた。

2次元ではない生身の女の子やイケメン、一人では立ち入ることすら躊躇する洋服屋さん、化粧品売り場。

小さい頃からデブ、ブスと言われ、根暗なオタクに育ったわたしはこういったものに対して自然と恐れ多さ、怖さを感じていた。これらはわたしなんかがコメントをしていいものではない。

 

この、自尊感情の低さからくる考え方は強力な呪いのようにわたしに根付いている。

たとえば雑貨などを見ていてかわいいとか、これ好き、とか言ったときに「ああ、好きそう」「〇〇(わたし)っぽいね」と言われることがとても嫌だった。今でも自分の好きなものを他人に話すのは苦手だ。

「ああ、好きそう(わたしは好きじゃないけど(笑))」とか、

「〇〇(わたし)っぽいね(デブスオタクが好みそうなその感じ…)」と言われてるように思えたからだ。

わたしが好きと評価をすることによって、その対象までもが、「デブでブスのわたし」と一緒くたにされて貶められている。そういう気がしてしまうのだ。

 

しかし、彼女たちと行動を共にしていれば必ずそのときはくる。「あ、あれかわいい」がくるのだ。

友達がかわいいと指したその服は、触れたこともないような鮮やかなピンクのワンピースで、正直かわいいのかどうかわからなかった。

しかし、返す言葉は「かわいいね」この一つしかありえない。わたしは自然な風を装ってそれを口にする。そして気がつく。

「かわいい」に「かわいい」で同意すると、奇妙な安心が生まれる。

彼女のセンスに同調することができる自分。それはピンクのワンピースを褒めただけでなく、彼女も褒めたことになるのだ。

そして、彼女のような「陽キャラJK」が好むものをかわいいと言える自分。

「かわいい」の同調によって、「陽」側の人間になれたような、世の中にとけこめたような錯覚が確かにあった。

 

わたしと「かわいい」という言葉の関係はこうしてはじまった。それから何年も経って、気がつけばなんの違和感なく、「かわいい」はわたしの辞書に居座っている。

ちなみに今現在のわたしが使う「かわいい」、その多くはねこや、好きな容姿の女優(綾瀬はるか石田ゆり子満島ひかりなど)に向けられる。

もちろん本心から言っている。自然と出てしまう。そう、呼吸するように。

そして、言うことで安心する。

今日もわたしの「かわいい」はちゃんと、世の中にとけこめているだろうか。