わたしは自他共に認める飽き性だ。
しかも熱しやすく冷めやすい。
近頃は「何かにハマる」こと自体にエネルギーを使うため、気になるものがあっても安易に手を出せなくなったが、中高生の頃はまさにとっかえひっかえというレベルで色々なものにハマっては飽きていた気がする。
子どものときから変わらずずっと好きなものといえば、漫画を読むことくらいだろうか。
最も、漫画を読むということのなかですら趣向は変化しているので本棚の中身は入れ替わりが激しい。
一般的に、人は飽きてしまったもの・ことに対してどのような感情を持つのか考えたことがある。
①以前のような熱意はないが、好きなことに変わりない
②関心が薄れ、やがてその存在を忘れていく
③掌を返し、嫌いになる
想定できるのはこの3つ(他にもあれば教えてほしい)。わたしは、③である。
例えば好きだったアニメやバンドがあったとして、パッタリとそれを聴いたり観たりすることを止めてしまう。家にあるCDやDVDを目にするのが嫌になり、しまうか売ってしまう。
好きが転じて嫌い(アンチ)になる、というのとは少し違うと思う。アンチのように攻撃したりはせず、ただ逃げるだけだ。
興味や熱を失ったとき、なぜか居たたまれなくなり、急に伸ばしていた手を引っ込めてしまう。
わたしは一旦ハマるととことんのめり込むため、生活がそれ一色になることが多かった。
一緒に暮らしている家族にもわかるレベルだ。
毎日見たり聞いたり、話していたものがパッタリと生活から消えるので、飽きてしまったということも当然すぐに家族へ伝わる。
「えっ…もう飽きたの?あんなに好き好き言ってたのに?」
と、よく言われた。自分でもそう思った。
趣味においても継続は力なりで、何かをずーっと好きでい続けている人は正しい、偉い、という感じがある。
すぐに飽きてしまう自分にがっかりした。
飽きることは悪いことだし、飽きたものを嫌いになるのは自分に問題があると思っていた。
そんなわたしでもこれは多分死ぬまで飽きないだろうなと思っていたものが、オタクでいることだ。
それこそ物心ついた頃から絵を描いてきたし、同人活動もした。
受験を機に一度離れた時期もあったが、それでもまた戻ってこれたのだ。わたしは絵を描いたり、アニメや漫画や他人の創作物を追いかけることをやめることはないだろうな、とぼんやり思っていた。
ところがわたしはまたしても、パッタリと、オタク活動の殆ど全てを止めた。
絵を描くこと、オタクアカウントでのtwitterやサイト運営、特定のジャンルやキャラに入れ込むことが一切できなくなった。ネットでそういうものに出くわしてもサッと避けてしまう。会いたくない人と偶然会ってしまったときのように。
この「飽き」に関しては明確な原因がある。
ざっくり言えば課金沼にはまった。
同人誌を何冊も出すほど好きだったそのジャンル、キャラへの好きが、課金によって義務感に変わってしまった。
ジャブジャブ課金していたのでお金もなくなり、生活も心も貧しくなって、ある日前触れもなくすべてのアカウントを消してしまった。
今思えば、飽きたとも少し違うかもしれない。
しかしこれを最後に、わたしは何かにハマることがなくなってしまった。
何かを好きになり、飽きる。そして嫌いになり、避ける。
何かに興味を持って、楽しんだりしても、頭の中で冷静な自分が「でもどうせすぐ飽きるんでしょ?」と指摘する。
こんなの対象に申し訳ないし、何より自分がつらいのだ。
もう一つ気がついたことがある。
わたしの「好き」は、アクセサリーなのだ。
最初は純粋に楽しんでいたのに、段々と「〇〇が好きな自分」にすり替わっていく。
他人へもそうだ。他人が「〇〇が好き」と聞くやいなや、わたしの脳みそは勝手にこう判断する。
「〇〇が好きってことは、陽側の人間だな」「じゃあ多分私服はこんな感じで」「△△も好きそう」「逆に多分□□は嫌いっぽい」「座右の銘とかありそう」「部屋めっちゃきれいそう」………。
こうしてイメージが勝手につくられる。
他人が日頃こういうカテゴライズをしているかは知らないが、わたしは「〇〇が好きな自分」が他人にどのように見られるか、どんなカテゴライズをされるかを常に意識してしまっている。
これを気にするのにも、疲れてしまった。
こうして今は無趣味の状態が続いている。
漫画を読んだりテレビを見たりするけれど、とても浅いところで楽しんでいる感じだ。
罪悪感はなくなったけど、情熱も失った。
しかし情熱を失い、冷めた頭で世間を見てみると、無趣味の人は意外に多く存在することに気がつく。
飽きることは、悪いことではないという文章をどこかで見て、少し救われたりもした。
飽きることは、悪いことではない。
好きになったり、嫌いになったりすることも悪いことではないだろう。
わたしの脳みそはどうやら、いい悪いじゃないことをいい悪いで測りすぎている。
頭の中に無数に存在するわたしのこういう測りを、捨てられたとき、楽になるんだと思う。できるかはわからないけど。