バイトを辞めて、2週間が過ぎた。
解放感の「快」は本当に一瞬で、3日もすればわたしはまた憂鬱になった。
スケジュールは本当に白紙の状態で、せっかくだから何かしようかなと思ったけど、すぐに自分がそれを諌める。
お金もないのにそんなことするの?
一人でそんなことやって楽しいの?
自問されたわたしは寝て起きてはスマホを眺めてまた寝る、という生活を1週間続け、それを自答としてみた。しかその間も自問の声は鳴り止まなかった。
みんな働いてるのになにしてるの?
意味あるの?
意味あるの?
意味あるの?
わたしはいつだって物事に対して「意味」を探していて、自分は何か「意味のある行動」をしていなければ居た堪れないのだと気づいた。
26年生きてきて社会や他人のことは知らないことで満ちているし、わかっていたつもりのことがわからなくなることもある。わからないことは増え続ける。
それどころか四六時中思い、考えているつもりの自分の気持ちですら未だにたくさんの気づきがある。そんな気づきにこそ意味あるの?と問いたいが、問う前にわたしの身体は無理やり動き、次の仕事を決めてきた。
仕事を決めてから、無職生活は驚くほど変わった。
寝て起きてはスマホを眺めてまた寝る、という行動に変わりはないのに、なんの居た堪れなさもない。暇を謳歌できる。
それどころか、一人旅に行くことにした。友人に会う予定もとりつけた。
意味なし、お金の無駄と先週の自分が切り捨てたものを、とても満ち足りた気持ちで実行できるのだ。
こんなに変り身の早い自分、何なのだろうか。
そして今、空っぽな頭で一人旅への空想をしたり、隣で寝るねこを揉んだりしている。
今が一番気楽だ。
ぬるま湯に浸かっているこの状態が、わたしにとって最良の時間なのかもしれない。
社会への猶予期間。
次にやるべきこと、「意味のある行動」への猶予期間。
社会に出て働き、他人と接することはあんなにつらいのに、結局そのことにしか「意味」 を見い出せない。悲しい。
ぬるま湯は冷める。
寒々しくなって、不安と焦燥に襲われながらざばりと上がればそこは多分社会だ。
猶予を謳歌したことへの刑罰みたいに、社会での生活が、労働が始まる。
耐えられなくなってまた仕事を辞めて、ぬるま湯に浸かるときがくるかもしれない。
でもいつか、こんな猶予も貰えなくなるときがくるかもしれない。
このしょうもないサイクル(わたしの人生、という名前の)から抜け出すことはどうせできないので、せめて次の猶予を貰えるくらいには頑張りたいと思う。