幸せの義務化をやめろ
死にたいと思わなくなった。
去年、(一昨年?忘れた)自殺未遂の未遂をしたからだ。
チューハイを一気飲みしてぐらんぐらんの頭でも、地上数mあるロータリーから身を乗り出しただけでめちゃめちゃ怖かった。
結局わたしには自分で死ぬ勇気がないんだとはっきりわかってしまったので、それ以来わたしが死にたいと思うのは嘘をつくことと同じになったような感じがする。
この間、朝シャワーを浴びていたら突然に悟りのような(悟りってたぶんこんな感じ)感覚を得た。あるときデマド(近所の猫)に会えたとき以来のことだった。
幸せって必要かなと思う。
もちろん不幸だと感じることはつらいし、幸せになりたいと思うのは当然のことだ。
最近のわたしは運良く(本当に運だけで保っていると思う、あとサインバルタ)不幸ではない。だけど特別幸せとも思わない。
「不幸じゃない=幸せ」じゃないの?と言われそうだけど、そうじゃないでしょ。少なくともわたしが思う幸せのイメージは、
お互いに愛を与えられる、受け取れる存在がいること。
金銭や物質的に豊かであること。
愛かお金かとかよく言うけど、少なくともそのどちらかを持っていることは絶対じゃないかなと思う。
尺度は人それぞれ問題がありますが、ここでいうわたしのイメージはマジの豊かなんで。極端なこと言えば貴族みたいな暮らしのイメージ。それは言い過ぎたかもしれないけど、世田谷区民(世田谷区民という概念…)みたいな感じはほしい。
つまりわたしはこの幸せイメージに当てはまらないので幸せではないと思うのだ。しかも多分このままずっと、それこそ宝くじが当たりでもしない限りは。
でも、なんか最近はそれでもいいかと思うようになってきた。
人間って、人間の人生において、幸せかどうかに重きを置きすぎているんじゃないかと思う。ていうか、幸せが義務化してない?
また世間や社会のせいにするんだけど、そういう風潮が絶対あるような気がする。
生涯のうちに個性を手に入れオンリーワンになって、ストーリーのある人生を送るということが全人類共通の目標であり、幸せみたいな。
ここで話は逸れるんですが、子どもの頃を思い返すとめっちゃムカつくことが一個ある。
「将来の夢」だ。
「スポーツ選手」「漫画家」とか、書きがちじゃないですか。でもそれって一握りしかなれないような職業で、実際そういう夢が叶うことってかなりのレアケースで。
大人である親とか先生ってそれを知ってるはずなのに、なんで子どもの頃あんなに夢をみさせられたんだろう。
叶わない夢を持って何になるのかわからない。
代わりに、もっと普通の人間になる方法とか、それこそ目標が達成できなかったときや失敗したときどうしたらいいかとか、すごい個性や能力を持った人なんて稀で、そうじゃない人はどうしたらいいのか、そういうのをもっと早く教えてほしかった。
話を戻しますね。
幸せになりたいっていう気持ちが、妬みや劣等感みたいなマイナスもかなり生み出してると思う。
なんで幸せになるために、擦り減らなきゃいけないんだろう。しかも努力したら必ず幸せになれるならいいけどそうじゃない。
幸せにならないとダメですか?目標とか個性とか意味とか居場所とかそんなに必要?
ただの生活を「人生」なんて大層な名前で呼んで、すべての人生にストーリーや価値がないといけないんだろうか。
不幸じゃない≠幸せ であるように、
幸せじゃない≠不幸 だと思う。
不幸はつらく悲しいけど、不幸じゃないならそれでいいと思う。
今はこんな気持ちです。
まあ今が穏やかな生活だからこう思うだけで、少しでもバランスが崩れたら掌返す可能性は大いにありますが。