陽のおばさん/陰のおばさん
中学生くらいから、ずっと「早くおばさんになりたい」と思ってきた。
十代の頃、他人に早く大人になりたいかどうか聞かれることが何度かあり、なりたいと答えていたけど本当は「大人」というより「おばさん」になりたかった。
現実社会において、おばさんは記号であり限りなく透明に近い存在なのだと思っていた。
中学に入学してすぐ、鼻にとても大きなニキビができた。
今思えばニキビというより粉瘤だったのかもしれない。(汚い話ですみません)わからずじまいだけど、とにかく鼻にできたそれは日に日に大きくなり、治る気配はなく一ヶ月あまり経っていた気がする。
当時わたしの家にはニキビのことで病院に行くなんて概念はなく、結局最後は母がそれをむりやり潰した。わたしはそれを嫌がりもせず仕方ないと受け入れたが、今でも鼻に跡が残っているのはかなりのコンプレックスである。
ニキビ跡のコンプレックスについては置いといて、今書きたいのは跡になる前のことだ。
ある日突然、話したこともないクラスの男子から名字にイボをつけて(例えて言えば「イボ山さん」って感じで)呼ばれた。
今でもそのときの男子のニヤニヤとした悪意のにじむ表情を思い出せる。
小さい頃から太っていたわたしにとって、容姿についての中傷は初めてではなかった。なのに、なぜかこのときは頭がまっしろになるようなすごい衝撃を覚えた。
「中学生」「ニキビ」「違う小学校から来た知らない男子」という思春期のはじまりがそうさせたのかなと思う。
それからもわたしの容姿はよく笑われ貶されたし、高校に入っても変わらなかった。まあ今でも偶にありますけどもうさすがに一々何か思うことをやめました。何も感じないようにはなれないけど。
思春期のわたしは彼らが何気なく、あるいはわたしを傷つけたいという悪意を持って放つ言葉に素直にめちゃめちゃ傷ついていた。
そんな中、道行くおばさんを見て、おばさんはいいなあと思った。
太っていたり、美人ではないおばさんなんてたくさんいる。なのにおばさんは男子から「デブデブデブデブ」と背後からずっと囁かれたり、黒板に不細工な似顔絵を描かれるようなことは(わたしの見ている限りでは)ほぼないのだ。
みんなおばさんを「そういうもの」として見ている。おばさんは容姿について言及される対象からは外れている。
早く年をとって、対象から外れたい。透明人間になりたい。
そう思うようになった。
そして今、わたしはおばさんに囲まれて働いている。
女だけの職場で同年代はほぼいない。こんなにたくさんのおばさんの集合を目にするのは初めてのことだ。働くおばさんや休憩するおばさんを見ているうちに気がついたことがある。
本当に当たり前なんだけど、おばさんにも色々いるということだ。
身なりに気を遣い、いい匂いのするおばさん。愛嬌があっておしゃべりなおばさん。何をするにもとても腰が低いおばさん。表情が乏しく、一見怖そうなおばさん。
オフィスでみんなが輪になってお昼を食べている光景をみていると、学校の休み時間を思い出す。
彼女たちの中にも、あの頃と同じカーストのようなものが確かに存在するなと感じる。そりゃそうか、彼女たちは「今、おばさんである」と同時に「昔、女子だった」のだ。
わたしは年をとれば自然と思い描く「おばさん」になれて、特有の図々しさで他人と円滑にコミュニケーションをとったり、あっけらかんと過ごせるようになるものだと思っていた。
でもそれはどうやら違うようだ。
おばさんにも陰・陽がある。
子どもの頃は見えなかった「陰のおばさん」は、年をとるごとに、その年齢が近づくごとに身近に感じられるようになった。
わたしはこのまま年をとり、陰のおばさんになるだろう。
陰のおばあさんにもなるかもしれない。
多分依然として陽のおばあさんとは相容れないまま。
相容れないことについて、もうあまりなにも思わない。何もないならそれが一番いいと最近は思う。