友人が書いた日記が本となり、出版されることとなった。
わたしの周りに本を出したことのある人間は彼女一人だけだ。友人が本を出す、という事実はわたしにとって単純に喜ばしかったし楽しみだった。
「読んだら感想教えてくださいね」と言われていたが、読んでいる最中や読後、いろんな気持ちや考えが浮かんでは消えたり留まったりして感想は一言でまとめるには大変な質量になった。
それでも別に本人へ個人的に伝えればいいんだけど、ブログに書いてみることにする。
本を読んだ感想というのが、わたしが普段ブログに書くようなものに似ていると感じたからだ。あとは、友人が言っていた「SNSやネットを通して、思いもよらない人が読んでくれたりする」みたいなのがおもしろいと思ったので、ごくごく僅かでもそのきっかけになるとなお良い。友人にとってもわたしにとっても。あとの残りは単にわたしの友人が本を出したよ、という自慢かもしれない。浅ましいけど、娘の通ってる学校に芸能人がいるんだよ~とはしゃぐ親戚のおじさんか何かくらいに思ってほしい。
前置きが長くなってしまいました。
「私の証明」は、ある日突然恋人が倒れ音信不通となったさなか、そしてそれからのことを友人が書き綴った記録だ。元々が個人的に書いていたという日記なので、本人の気持ちや考えたことが記録の大半を占める。
わたしは以前ブログに「他人の脳みそが見たい」と書いた。道行く他人になにが起こり、なにを考えているのか知りたい。それをその人が文章にしたものが読みたい。
そして「私の証明」は正にそれである。
厳密にいえば一つ違って、これは道行く他人ではなくわたしの友人が書いたものであるということだ。知らない人の脳みそを覗くのと、見知った友人の脳みそを覗くのとではまた感想も違ってくる。現にわたしは友人から恋人が倒れた話を直接聞いて知っていた。ああ話していたとき、こう思っていたんだなと答え合わせのような気持ちで日記を読んだ。
感想文と言いながらわたし個人の話になってしまうが、そもそもなぜ他人の脳みそが見たいのか。
それは他人の考えや気持ちを知って、自分と重ねて比較・検討をしたいからだと思う。世の中にいる人間の気持ちを知って、同じところや違うところを見つけては少し世の中に溶け込んだ気持ちになれる。
友人の日記を読んでいるときも、無意識に自分だったら、と重ねて考えながら読んだ。
そしてわかったのは、自分の気持ちや考えとは全然重ならないということだ。もちろん理解できないとかそういう意味ではない。そもそも友人の身に起こったことは凡そ皆が体験するようなことではないと思うが、それを踏まえてもわたしならこんな風に思えるだろうかということばかりだった。
まえがきには、自分の過ごした最低な日々をなかったことにしたくない、忘れたくないから記録を始めたと書かれている。そして日記を読み進めると、「忘れたくない。でも、忘れないとしんどい。」とも。
本当にそう思う。同列に語れるものではないけれど、わたしは自分に起こったつらいことから逃げたし、積極的に忘れた。パン屋への就職と挫折の話をブログへ書いたのは、当時まだまだつらいままで「このつらさを誰かにわかってほしい」という独善的な理由だけだった気がする。
忘れないことはつらく苦しい。つらいことから逃げられても、自分からは逃げられない。そこに立ち向かう人はすごいと思う。
仮に、友人と面識がなく、全く見ず知らずの他人という状態でこの本を読んだらわたしはどう思ったんだろう。
きっと逆に、容易に自分の感情と彼女を重ねて共感をしたかもしれない。
そう思ったら、ふだんインターネットや本で読む知らない人の感情に共感をすることは、容易なことなのだと気づいた。
姿形が見えなくて、その人がどんな人か知らないからこそ、少ない情報だけで簡単に「この人は自分と同じだ」と思ってしまえる。わたしはどれくらい都合よく切り取り、歪め、当てはめているんだろう。もちろんそれは悪いことではないと思う。
でも、今回初めて見知った人の極めて私的な「日記」を読んで、あの子はあの子。わたしはわたし。それぞれ違う人間だということを改めて証明された気がする。そしてそれは寂しい気持ちでなく、むしろ清々しい気持ちだ。
知れば知るほど他人と自分は違う人間だと思い知る。もちろんそれでうまくやれない他人もいるけど、そのうえでうまく付き合える他人がいるというのは幸運で恵まれたことだと思う。そういう風に思って生活がしたい。
だらだら書いたけど、やっぱりわたしはエッセイが好きだし人の考えていることをもっと知りたいし読みたいなと思った。
最後に、Amazonのリンクを貼りますね。
他人の脳みそが見たい人は読んでみてください。